道中徒然話(5)
(5)
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赤ん坊の泣顔
 ここはある大手会社の守衛所前。荷物が来るのを待たされている。
ここに来る前にこの会社の受入出荷のほとんどの仕事を動かしている物流の会社へ寄ってきている。その物流会社では今回の仕事のある程度の概要説明をしてもらい、いくつかの伝票と運行工程表、それと「高速道路の料金所、警察などの検問に渡してくれ」と言われた何枚かの「公安」の文字が入っている書類、「フロントガラスに貼り付けて運行してくれ」と、言われたステッカーを渡されていた。

 その4日前、平成7年(1995年)1月17日午前5時46分、淡路島北淡町野島断層を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生。淡路島、神戸市、西宮市、芦屋市など、震度7の烈しい揺れに見舞われ、死者6,433人。行方不明3人、重軽傷者者43,792人。全半壊家屋274,181棟。焼失家屋約7,500棟、避難者約35万人。断水130万世帯。停電260万戸。ガス停止86万世帯。電話不通30万回線。同時多発火災約290件の大惨事が起きていた。

 今回の仕事の目的と目的地は、支援物資を兵庫県○○市のある会社へと届けることである。その支援物資がまだ届いておらず、荷主である会社の守衛所前で待っていたのである。
今回の支援物資輸送関係の人達の何人かが私の処へ来ては、色々と情報交換をしては戻っていった。
 そうこうしているうちにやっと支援物資が届く。荷主の会社内にあった発電機、今届いた非常食や水、天気予報で天気が崩れてきているということで雨ガッパなど、色々な物が積み込まれた。積み込んだ荷物は相当なもので、軽トラックで詰める重量一杯だった。心配で軽トラックの下回りを見てみると新品間もないタイヤはかなりつぶれていた。この軽トラック(愛車)は新車購入時にオプションでサスペンションの強化を図っているのだが、それでもスプリングはかなりのヘタリを見せていた。

 積み込んだ支援物資の中でも一番気になったのは粉ミルクに哺乳瓶だった。
そう、私がこれから向かう先には赤ん坊がいるのだ。一瞬、背筋に寒気にも似たものが走り、赤ん坊の泣き声が聞こえたような気がした。
 今回の支援関係の上役だと思われる方から「あちらの詳しい情報はわかりますか?」と聞かれ「テレビやラジオでの情報だけです。」と応える。すると「うちでも色々と連絡をとっているんですが、本当に詳しい情報が今一つ入ってこないんですよ」と話してくれた。
「何時間ぐらいで着きますか?」と、聞かれ「通常の状態なら○○時間ぐらいですね」と、応える。
「先日も大型車や4トン車で支援物資を送ったのだが、途中で連絡がつかなくなってしまった。」との話だった。
 今回の輸送も入れると何回か送っているようだが、そのどれもがまともに行き着いてないような話しぶりだった。それもあってか「荷物を無事届けることを最優先でお願いします。」に続いて「できるだけ早く届けてほしいのだが、何があるか判らないので本当に気をつけて走って下さい。」とのことだった。

 心配そうに見送る支援担当の方々の顔を見ながら、一端事務所へと戻るようにルートを取った。途中ガソリンスタンドへ寄り、給油とともにタイヤの空気圧をいつもより多く入れる。これから重量リミット一杯の支援物資を積んで高速道路を走ることを考え、マニュアル規定の空気圧では危ないと判断したからである。
 事務所へ一端戻ると、同行者が待っていた。今回の仕事、車の異常以外での休憩がまったく取れないと思い、応援を頼んでいた。それと、どうしてもこれ以上は車では無理と思える場合は荷物を背負って歩くしかないと思っていた。その場合、一人より、二人の方が荷物が多く背負えると思ったからである。支援物資の中に入っている粉ミルクと哺乳瓶が気になっていた。事務所に戻ると同行者に頼んで用意してもらっていた、自分たちの食料、水、コーヒー、ジュースなどを積込み、懐中電灯など緊急時の備品を点検し、出発した。

 いつもの高速道のICから高速道路へと乗り、東名高速へと向かう。
高速道路の料金所について高速のチケットと預かっていった「公安」の文字の入った書類を渡すと「お金は?」と聞かれた。「その書類を渡せばいいと言われたんだが」と聞き直すと「こんな書類もらってもナ〜」とけげんそうな顔しながら書類に目を通す。
 おじさんの顔つきがちょっと変わり「軽トラックで!!」と言いながら「ちょっと待ってて」と言うと事務所の中へと走り込んでいった。帰ってきたおじさんは私達の軽トラックのフロントガラスに貼られたステッカーを確認し、書類を戻しながら「大変失礼しました。」と直立不動。「書類はそちらに渡すだけでいいからと言われているから」と、差し戻し「行っていいかな?」と言うと「ハイ、結構です。」「お疲れさまです。頑張って下さい。」と直立不動のまま、通路に出て敬礼までして見送ってくれた。
 この時はじめて「公安」の文字が入った書類とステッカーの意味するところを知ったような気がした。書類をくれた物流会社の担当の人が「名神高速はこちらから行くと京都南ICで全ての車が下ろされるはずだが、料金所でこの書類を見せるとその先まで通してくれるはずだから」と聞かされていた。まだ、敬礼したままの料金所のおじさんをバックミラーで見ながらその意味と、今回の仕事の責任の重さを再認識させられたような気がしていた。

 私達は東名高速へと乗り換え、港北パーキングエリアへと止まった。
今回の仕事の連絡をもらってから一度も物を口に入れないまま、トイレさえも忘れ、夕食の時間帯になっていた。
 いつもの仕事と違うせいか、いまひとつ食欲がなかったが身体が駄目になっては元も子もないと食事をとり、トイレをすませ、休憩もそこそこに出発した。
 その後に止まったのは牧之原サービスエリア。荷主の支援担当の方から「二時間ぐらいおきに物流の方へ連絡を入れてほしい。」と、言われていたのと、給油のためである。
 しかし、ここ牧之原サービスエリアに入る前にも結構辛い思いをする事となった。ここのサービスエリア入口の手前は結構急な坂道になっている。その坂道を重量リミット一杯の、軽トラックで登坂車線を上ることになるのだが、このコースを走るのは大型トレーラーか、荷物満載の大型、4トントラックが多い。それも登坂中のトラックのほとんどがスピードを緩めることを嫌う。荷物を積んでいる大型は一度スピードを緩めてしまうと加速していくことが極端に困難になってしまうからである。しかし、そんな登坂車線を荷物満載の大型トレーラーよりもっと遅い軽トラックが走ったのである。当然、後から煽られることとなる。登坂車線で大型が後から迫ってくると、走行車線へと逃げ、やり過ごすと又、登坂車線へと戻る。と、いったことを何回か続けながら、何とかサービスエリアには入ることが出来たのである。
やっと入れたサービスエリアのガソリンスタンドで給油しながら「この後も目的地の兵庫まで幾度となくこんなことを繰り返す事になるんだろうな」と思っていた。

 給油をし、駐車場に車を止め、休憩室へと入り、物流へと連絡を入れると「なんだ、こんな遅い時間に!」と怒ったような口調。私は「すみません。ちょっと連絡遅れましたか?」と言うと「何言ってんだ?」との問い。変だなと思い「荷主さんから二時間おきぐらいに連絡を入れて、と言われてるんですが」と言うと「聞いてないな」との返事。「何積んでんの」との問いに「支援物資です」と応える。「何トン」との問いに「軽トラックですが」と応える。「軽トラック!」と驚いたような、何で軽トラックなんかでと言いたそうな声のトーンで返事が返ってきた。「連絡の方どうしましょうか?。」と聞くと「そう言われたんなら連絡して」に続いて「今度連絡するときは車番とどこからの定時連絡か場所を言って」とのことだった。「わかりました。」と返事をし「また二時間過ぎた頃連絡します。」と応えると「じゃ、気をつけて走って」と、声のトーンが最初とは打って変わっていた。やっと分ってもらえたようだったが「連絡ぐらいつけておいてくれればいいのに」と、同行者に愚痴をこぼす。
 ここ牧之原サービスエリアの休憩室は結構広く、トラックがたくさん止まっている割には夜中は人が少ないのでゆっくりできる。お茶を飲みながら足を伸ばし、身体のコリをほぐしながら少し休憩することにした。しかし、赤ん坊のお腹を空かして泣いている顔が頭に浮かび、身体を伸ばすのもそこそこに東名高速道の本流へと愛車を乗せた。

 牧之原サービスエリアを出て、磐田原パーキングエリアの後、止まったのは養老サービスエリア。[自衛隊の車両]ここに来るまでに給水車を牽引している車両を含めた自衛隊の車両に何台もすれ違い、又、追い越していた。被災地へ向かっているんだということを確認させられる。しかし、さすがにこのあたりまで来ると眠気が凄い。時間的にも眠気が襲ってくる時間ではある。本当に眠いときにこんなことをやっても焼け石に水で、何の足しにもならない事はいやというほど知っている。このために同行してもらっていたのである。少しの休憩後、運転を替わってもらう。
 その後、私が起こされたのは大津サービスエリアである。ここで給油をし、眠気覚ましに売店を見て歩いた。運転を交替し、持って来た水筒のコーヒーを口に入れながら本流へと車を乗せる。

 やっと京都南インターまできた。いつも通過しているのだが、ここまでがいつもより遠く感じていた。
物流の担当の人から説明を受けていたが、やはりここで車は下ろされていた。
私達も混みあっているゲートへと車を走らせる。暫くしてゲートへと入った私達は「公安」と入っている書類を見せた。ゲートにいる方がフロントガラスに貼ってあるステッカーと書類を見ると、ちょっと不思議そうに「その先、広くなっているところへ車を止め、後は警察官の指示にしたがってください。」との説明をしてくれた。
 指示された通りに車を止め、暫く待っていると1台のパトカーが来たので、車からおりて待つ。警察官が近寄ってきた。「支援物資ですか。」と聞かれたので「そうです。」と応える。「ご苦労さまです。」とステッカーを確認する。ここでもちょっと不思議そうに「これで来たんですか?」と聞かれ「そうです。」と応える。「支援物資なんてほとんどが大型か4トントラックでしょうから不思議に思いますよね?」と言うと「ええ、まあ」と言うような返事が返ってきた。

 「この先、先導しますのでついてきて下さい。」と言われたので「ハイ。」との返事に続き「この先どんな状況なのか知りたいんですが、教えてもらえませんか?」と言うと、「これからこの先の吹田まで先導するんですが、そこで暫く支援物資を積んだ車がある程度集まるまで待ってもらいます。それから大阪市内までパトカーで先導します。その後は御自分達で考えて下さい。」とのこと。
「え?、どういう事ですか」と聞き直すと、「私達も市内までしか案内できないし、その先までは案内できませんので。」との応え。その後、色々と話をさせてもらい、できるだけの情報がほしいので「今、分る範囲でいいので詳しく教えてほしい」とお願いした。
 その情報次第ではここ京都南インターで下りるか、先導してもらって吹田から下り、大阪市内を走るか決めたかったのである。私達は最初に「あなたは地元の生まれの方ですか?」と聞いた。地元の警察官じゃないと土地勘がない。土地勘のない人間に何を聞いてもこんな時はどうしようもないことを私達は知っている。地元の人間だと直感的に感じて出せるルートがあるものである。えてしてそんなルートの方が危険が少ないことの方が多いことも私達は知っていた。教えてもらえるルートが遠回りでも近道でも、そんなことはどうでも良かった。私達は相手先へどうしても荷物を届けたかった。

 地元らしかったので、次に「あなたなら今現在知っている情報でルート設定をするとしたら、どんなルートで走りますか?」と聞いた。「あなた方、専門なんだから分るだろう。」と言われたので「通常ならこんなこと聞きませんが、こんな時は、地元の人間、そこで暮らし、生きている人間にかなうはずないですから」と言うと、やっと警察官の方も分ってくれたらしくちょっと笑顔になり声のトーンが変わった。
話を続け「もし、あなたの恋人や親兄弟が○○市にいるとして、あなたが何としても行こうと思ったらどんなルートを走りますか?」と聞き直した。「確かなことは言えないけど」と、丁寧に教えてくれた。私達は取りあえず教えてもらったルートで車を走らせることにし、吹田へと先導をお願いする。吹田で先導してくれた警察官へお礼を言うと、私達だけが特別だったのかどうか分らないが、出口を親切に教えてくれ「気をつけてね」と声をかけてくれた。私達は先導してくれるのを待つ多くの大型や4トントラックを尻目に高速を下り、教えてもらったルートを走った。

 教えてもらったルート通り、私達は中央環状線へと向かい、乗ることが出来た。走りはじめた中央環状線には、震災の傷跡は見当たらず、スムーズに走ることができた。しかし、スムーズに走れたのは途中まで。その後中央環状線を下り、ルート変更すると、道が崩れていて通れなかったりと仕方なくルートの変更を余儀なくされることがたびたびあった。時間との戦い、気持ちが焦り、滅入っていく。そんな中、今回の道程の中でも一番気持ちを落胆させられ、滅入らされた出来事に遭遇することになる。
 何とか道を探しながら走り続けていると、道が混んでいる。なんと、先導しているのが暴走族。「このちょっと先では家が潰され、生死の境をさまよっている人間がいるんだ!。」と、本当にハラワタが煮えくり返り、この時ほど怒りを感じたことはなかった。このために又ルートを変更せざるをえなかった。

 その後も、どこへ向かっても行き止まりや渋滞が多く、兵庫県へ入ってから見つけたローソンで道を聞いてみるが、「分らない」の返事しか聞けない。そんなところへローソンへの納入業者が入ってきた。
聞いてみると、「何積んできたの?」と聞き返されたので、「支援物資」というと、「え!!」「これで!」と指で私の愛車をさした。業者の人は「う〜ん!。こんな時だから力になってやりたいんだが、俺達もわからないんだ。」と自分たちも納入して歩くのに困っているようすだった。

 私達はお礼をし、その後国道176号線へと車を向けた。しかし、この国道176号線もスムーズには走ってはくれなかった。暫くは何とか走れていたのだが問題は宝塚だった。国道176号線へ乗ったあたりから運転を交代しており、私が気がついて同行者に聞いてみると、宝塚へ入ったあたりから渋滞が始まり、とうとう動かなくなって30分ぐらいたっているとのことだった。詳しい話を聞いてみると30分で電信柱1本分の間も動いてないことがわかった。
 このままでは朝一番に着かないと、慌てて車を下りて、距離にすると結構ある先の交差点へと歩いてゆくと、その先のこれから乗る道路も渋滞しており、動いている気配もなく、交差点の先ではイライラがつのってか喧嘩まで始まっていた。これじゃ駄目だと、私がナビをやり、車をUターンさせ、暫く戻ったところから北へルートを取った。
 しかし、途中にあった消防署で道を聞くと「この先はいけないし、行き止まりだよ」との話で、ルートも確実にはわからないと言われてしまう。そこからはほとんど正確なルートを覚えていない。直感的に南ルートは駄目だろうと、とにかく北へルートを取り、そこから西へ行けるルートを探しながら走った。西へ西へと向かっていると、そのうちどう考えても木材の切り出しか、山仕事の人間しか走らないだろうと思われる道をいつのまにか走っていた。

 「本当にこの道でいいのだろうか?」。でも、こんな山の中ほど私の感はなぜか冴え、確実な方向を指している場合が多い。込み上げる不安を抱えながら自分の感を信じ、地図に載ってない道を、車のヘッドライトでも見えない先を、車を下り、歩いて、懐中電灯で探っては、少しづつ愛車を前へと進めた。
 ある時、凄い谷にさしかかった。車を止めたが下の方が全く見えない。懐中電灯を持ち、車を下り、暫く歩いて下の方へと下りてゆくと橋があった。橋はコンクリート製で古いが何とか渡れそうだった。しかし、ここへ下りてくる道と、橋を渡ってからの上り坂は半端ではない。道は砂利道。荷物はリミット一杯。スリップしたら谷底。ここで失敗したら支援物資を届けるどころの話ではない。戻って、他の道を探している時間はない。
 しかし、迷った。もう少し判断材料がほしい。暫くの間使われてなかったと思われるその道を調べていると、変わったタイヤ跡を見つける。そのタイヤ跡は田畑を耕す耕耘機か、山から木を切り出すときに使う動力付き台車に似ていた。再度よく見るとタイヤ跡はダブルになっているのを発見。このタイヤ跡は、山から木を切り出すときに使う動力付き台車に間違いないだろうと跡を追うと、その後が谷向こうまで続いているのを確認した。そして腹を決める。

 私の車はパートタイムの4WDである。その上にローとハイの切り替えがついており、通常の四輪駆動での走行ではハイを使用している。しかし、今回のような場合の特別な道路ではロウを使用するようになっている。
 4WDのローへとギアを切り替える。4WDのローを仕事で使用したのは今回が初めてである。ゆっくりとクラッチを繋ぎ、車を走らせる。エンジンの唸りと反比例して、恐ろしいほどゆっくりと動き出す愛車。しかし、路面を掴む力が何倍にもなっているのが実感できる。「これならいける。」と、急傾斜の左急カーブをゆっくりと下り、ギアをそのままに橋をゆっくり渡り、急傾斜の右急カーブをゆっくりと上ってゆく愛車。上りきった!!。
 強化したサスペンションのせいか、リミット一杯の荷物にも振られることなく、我が愛車は上りきった。こんなことが運転手人生の間にあと何回あるのか分らないが、かけるべき装備には金をかけておくものだと、この時つくづく思った。他の運転手仲間からは「ムダだ!」と言われていたのだが、「1年で1度しか使わないと思える装備でも、あれば便利、使えば仕事が安全で楽になるものは付けておく」が、私の持論である。
そう、行き先に何があるか分らないのは人生と一緒である。装備とはあって困るものではない。

 その後も暗闇の山中をヘッドライトだけを頼りに、ただ西に向かって走り続けた。
どれくらい走っただろう。急に前が開け両側田んぼの畦道へと出た。目を遠くへ移すと、大型トラックが走っているのがうっすら見えた。
しかし、目の前の畦道は軽トラック一杯の道幅しかない。車を下り、暫く歩いて調べてみると耕耘機が走った跡があった。何日か前に雨が降っていたようなので路肩は危ないと、真ん中を、一定の速度で大型トラックが走って見えている方向へと愛車を走らせる。
「やった!!、山越え出来た。」道はつながっていた。
今回、仕方なくこのようなルートを取らざるをえなかったのだが、出来れば二度と走りたくない行程であった。しかし、苦労したおかげでかなり目的地に近づいたことを実感できていた。

 大型トラックの走るのが見えていた太い道路へ出ると同時に同行者が「こっちだ!」と叫ぶ。「間違いないか!」「大丈夫。間違いない!」言われるままにステアリングを切る。「もう少しだ」と目的地へ向け愛車を走らせていると、今度は道路がうねって地割れしているところがあった。手前で車を止め、歩いて道路の先を調べては、また車を走らせるということを何回か繰り返し、安全を確認しながら先を急いだ。これで、「もう一度揺れが来たら、荷物を届けられても帰れるかな?」と、思いながらやっとの思いで目的地の会社の門の前へと着いた。

 しかし、誰もいるような気配がない。守衛もいない。「当たり前か」と、会社の裏へと廻ってみるとシャッターが一部開いていた。中へと入ってみる。「すみませ〜ん。誰かいらっしゃいますか。」中から人が出てきてくれた。よかった人がいた。
 「荷物届に来たんですが。」というと一瞬「?」という感じ。「こんな時に会社なんかやってないよ」とけげんそうな返事。
「いえ、支援物資ということなんですが」というと「支援物資!」「どこから」と聞き直され「○○工場さんですが」というと、やっと分ってくれたようで「どうもお疲れさまです」「小さい車で大変だったでしょう」「ここまでスムーズに来れましたか?」と矢継ぎ早の質問。返事する間もなく人を呼んできて、あっという間に下ろしてくれた。
 「大変だったでしょう。どうぞお茶でも飲んでいって下さい。」と、勧められる。しかし、持ってきた支援物資の中には水も入っていることを知っている。とても、ご馳走にはなれないと遠慮していると「どうぞ、どうぞ、色々お話も聞きたいので」と言われ、これ以上遠慮も失礼かと、言われるまま二階へと上がる。
 通されたところは大会議室のようだった。結構広い部屋に二人待っていると、先ほどの方が来て、又丁寧にお礼を言われ、お茶を入れてくれ、目の前にあった握り飯を勧めてくれた。
しかし、支援物資持ってきた被災地先で食べるわけにもいかないだろうと、二人見合わせていると、又「どうぞ、どうぞ」と言われ、「朝食はまだでしょう?」と聞かれ「ハイ、でも、私達は帰りに食べられますから、どうぞ他の方にあげて下さい。」と言うと「大丈夫ですよ。まだ炊けばありますから」「いいでしょう。遠慮せず食べてって下さい。何もできませんが」と今度はカップヌードルを作り始めた。むげに断ることもできず、頂くことにした。
しかし、支援物資届けにきてご馳走されるのはかなり気が引けた。

 「頂く前にお電話拝借したいのですが?」と言うと「どちらへおかけですか?」と聞かれる。
「物流へ配送完了の連絡を入れたいのですが」と言うと「分りました。こちらです。」と案内してくれた。よかった、電話回線は通じているんだ。と、物流への連絡を入れ始めると先ほどの方が寄ってきて「替わって下さい」と言う。
 替わると物流の方と少し話した後、私に受話器を渡した。物流の人が「お疲れさまでした。気をつけて帰ってきて」と言って電話を切った。元の部屋へ戻り、待っていた同行者と勧めていただいた握り飯とカップヌードルを食べ始めると「見られていたら食べづらいでしょう」「届けてもらった支援物資見てきます。食べ終わるころに又来ます。」と部屋を出ていった。
 二人「どうにも、支援物資持ってきてご馳走になるのは気が引けるな」などと話ながら食べ終わり、お茶を飲んでいると先ほどの方が部屋に入ってきた。「スムーズに来れましたか?」と話しかけてきた。
「いや、途中道路が通行止めになっていたり、宝塚市内のあまりの渋滞で山越えしてきました。」など、道中あったことや地元の状況などを色々と話しさせてもらった。

 話の中で支援物資輸送担当の方が言っていた、「先日も大型車や4トン車で支援物資を送ったのだが、途中で連絡がつかなくなってしまった。」というのを思い出し「支援物資を積んだトラックを何台かこちら方面へ送ったようなのですが届いてますか?」との問いに「いや、あなた方が初めてですが」と聞かされ「他にも送っているんですか?」と聞き返され「私達より何日か先に出ているはずの大型トラックや4トントラックが途中で連絡取れなくなってるらしいのですが、途中凄い渋滞でしたからまだ動けないのか、こちらではなく他へ送ったのかもしれませんね。」と応えた。
 私達の相手をして下さった方は「私は元々関東の人間で、地震がいやで関西に来たんですが、まさか逃げて来た先でこんな大きな地震に遭うとは」とも言っていた。
 「ご自宅の地震の被害は酷かったんですか?」とお聞きすると「食器満杯の食器棚が2メートルぐらい左右に飛びました。」「壁に傷が残っているから分るんですが」と言い、「地震対策に棚の上につける突っ張り棒みたいな、テレビショッピングなどでよく売っているものを付けていたのだが、何の足しにもなりませんでした。」と話していた。
 それから「吊っていた電気の笠が天井にぶつかり天井に穴が開き、最後には線が引きちぎれていました。」とも「うちはマンションなんですが、2棟建っていて、私達が住んでいるところとは違うもう1棟が2階から二つに折れて傾いたままです。」とも言っていた。「二階に住んでいた人達は亡くなったんじゃないかな」の言葉に暫くの間二人とも次の言葉が出なかった。

 一通り話し終わった後、私達は帰ることにした。先ほどの方が車のところまで送ってくれて、最後まで見送って下さった。
 会社の門を出ると、日も高くなりはじめており、やっと長い長い夜が明けたような気分だった。「なんか、ご馳走になって悪かったような気がするな」「でも、中には何も入ってなかったが、あの塩むすび、うまかったな」「こんな時に、こんなところで温かいものを腹に入れられるとは思わなかった。」と二人、身体も心も温かくなってゆくのを感じていた。
 「本当にいい仕事させてもらった。」「支援物資だし、今回の料金、貰わなくてもいいか。」などと話ながら、まだ渋滞している帰路へと愛車を向けた。
 今回無事、支援物資を届けることができた。ここに来るまで、途中ずいぶんと様々な方々にお世話になった。本当にありがたいことだと感謝するとともに方々の顔を思いだし、これから先、阪神への仕事の度に思い出される顔になるなとこの時感じていた。この頃には赤ん坊の泣いた顔は頭に浮かばなくなっていた。


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