東金砂神社 境内



[東金砂神社境内・御神木/モチの木]
御神木<東金砂神社境内>

東金砂神社の社務所前に枝を延ばす県指定天然記念物のモチの木。

由緒
旧水府村和久の菊池某という人が、当社に心願をかけ奉納したもので、御神徳により粳(うるち)が糯(もち)に変じたと伝えられる御神木である。

●樹齢:約500年
●樹高:   8m
●直径:   1m
●幹周: 3.6m

指定年月日:昭和47年12月18日
所在地  :常陸太田市天下野町9740 旧)茨城県久慈郡水府村天下野9740
管理者  :東金砂神社

 

[東金砂神社・鳥居3]

[東金砂神社・田楽殿]

[東金砂神社・忠魂碑]

[東金砂神社・お手水]

[東金砂神社・鐘突堂]

[東金砂金砂神社・末社4]

東金砂山(490m)
 国道461号線から県道33を走ると、天下野仲町に今日の天気に映えて特に赤く、大きく見える鳥居があり、東金砂神社への参道がある。狭いが舗装された道を慎重に上がっていくと木で作られている最近の建立と思われる鳥居が有り、次の朱色に塗られた鳥居下の駐車場に着く。鳥居の右手にさらに車道があり、進むと東染方面への参道になる。こちらの参道には別名・参道鳥居ともいわれる東金砂神社一の鳥居がある。
 ここから石段をいくつか上ると東金砂神社社殿である。神社はほぼ山頂にある。

[東金砂神社・末社3]

[東金砂神社・末社2]

[東金砂神社・末社1]

[東金砂神社・波島大明神/針供養塔]

[東金砂神社・摂社/左]

[東金砂神社・摂社/右]

 東金砂神社は西金砂神社と兄弟社で、似た縁起のようであるが、東金砂神社には説明版がある。

「大同元年(806) 宝珠上人が社殿を造営、比叡山日吉権現、大山咋命を勧請した。大同2年田村麻呂は蝦夷征伐のおり多宝塔を立て戦勝を祈願した。嘉承2年(849)慈覚大師円仁は比叡山の21社を勧請し祀った」

 ここまで書いてあるが、それ以後については書いてない。神仏混淆であったが、江戸時代に水戸藩は寺院法度令で仏教を排除した、したがって神仏混淆の頃の記録は少ないのだろうと推測した。別の資料には開基縁起にはいろいろあり、伊豆に流されていた役小角は、北に金色に輝く山を見て飛来し、西金砂山に来ると、薬師瑠璃光如来の光明で砂が光っていた。とあり、また祭神の大己貴命と少彦名命が鮑に乗って水木浜に現れた。ともなっており、これが72年毎に現在まで続く磯出大祭礼の起源だという。

[東金砂神社・御輿舎]

[東金砂神社・寶物舎]

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[東金砂神社・末社5]

[東金砂神社・社務所]

[東金砂神社・末社6]

 鎌倉時代以降、日光連山の山岳信仰と関連して、東西金砂山は西の定源寺、東の東清寺を中心に修験の山となっている。東西金砂山、竪破山、真弓山、花園山は常陸天台五山といわれ、隆盛した。鬼魔妖怪の調伏と五穀豊穣が民間信仰として拡がり、今に続く大例祭や田楽として受け継がれてきた。
 水戸藩は諸宗寺院法度を定め、社寺の役割を明確にしたので、別当寺であった西金砂山定源寺、東金砂山東清寺は藩の厳しい政策で、活力とそして多くの資料を失った。
 大祭礼も衆徒や山伏が主催していたが、藩が費用を負担し行うようになった。しかし厳しい藩財政となるとしばしば行えなくなり、今の年数間隔になったという説もある。
 民の力で行っていたものが、お上の介入で行われるようになったということであろう。それが中世から近世への転換でもあった。そして現代は再び民の力で行われるようになった。

[東金砂神社・鳥居2]

[東金砂神社・阿吽左]

[東金砂神社・阿吽右]

[東金砂神社・守札授与所]

[東金砂神社・東金砂山道石碑]

[東金砂神社・末社参道]

 西金砂山と東金砂山、この二つの山はひとつの山の双耳峰ではなく、山田川を隔てて相対する別の山で、説話では、西の神は女神で、東の男神に嫁いで夫婦になったと伝えられ、また近世はその宗教的な性格から、西を神の山、東を仏の山と表現されている。
 摂社に熊野神社と白山神社が祀られている。中世の修験道の歴史は消されてしまったようだが、金砂山自然環境保全地域の境内はスギの巨樹に包まれ、今なお静かである。




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